今週のレシピ

・アドバンスクラス(12月第3週)のメニューより
● ローストチキン 

ローストチキン1の写真 [材料]  -6人分-
・鶏1羽(1.5kg)
  塩大さじ1
  胡椒少々
  サラダ油適宜
◎A
  赤ワイン1/2カップ
  水1/2カップ
◎B
  玉葱の薄切り小1個分
  人参の薄切り50g
  セロリの葉少々
  パセリの茎少々
≪ソース≫
・焼き汁 ・焼いた野菜
・赤ワイン ・水 ・トマトの水煮
・トマトケチャップ ・ウスターソース
・塩 ・胡椒
≪附け合わせ≫
・ポテトと人参のバター煮
・さやえんどうのソテー
・ゴフレポテト
・クレソン
≪飾り≫
・マンシュエット
・紅白リボン

  [作り方]

◎鶏1羽の焼き方

  1. 鶏の内側と外側に半分ずつ塩をよくすり込み、胡椒をする。
  2. 首を内側に入れる。両足をしっかり立てて、竹串でとめる。お尻の部分も、皮でおおうようにしながら竹串でとめる。手羽先で首の皮をとめる。
  3. サラダ油を鶏全体にぬり、天板にのせ、200℃のオーブンで15分焼く。
  4. 天板に出てきた脂をとりのぞき、A(赤ワインと水)をかけ、さらに200℃で25分焼く。
  5. 鶏肉のまわりにBの野菜をおき、180℃に温度を下げたオーブンで20分位焼く。
  6. 焼き上がった鶏は20分位オーブンの中においてから、別皿にとり出しておく。

◎ソースの作り方
  1. 鶏を焼いた天板の焼き汁と野菜を、鍋に入れる。
  2. 天板に赤ワインと水を加えて、焼けごげを洗い(「デグラッセ」という)、1の鍋に加え、好みでトマトの水煮も加え、火にかけて煮る。
  3. 2をシノワーでこし、好みでトマトケチャップ、ウスターソースなどを加え、塩・胡椒で味をととのえる。

◎附け合わせの作り方

◎盛り付け ◎食べ方

ポイントはここ


ちょっと一言

≪組み合わせメニュー≫

 ◎コンソメス―プ
 ◎フルーツサラダ

【野口料理学園】
塩ひとつまみ

■味わう人生 (その10)

―テレビ放送― (つづき)

昭和四十三年十一月、味の素株式会社がスポンサーの「一、二の九」というバラエティー番組に出演しました。私は十月の末から料理学校協会の秦会長を団長とするヨーロッパの旅に出ていました。旅行中に放送の件が決り、帰国しての翌日という日程でした。
放送時間に間に合わぬと困るという事になり、娘がローマのホテルに手紙を送って来ました。フローレンス、ベニス、ナポリなどを回ってローマには三泊もしましたので、幸に娘の日本からの便りを手にする事が出来ました。ホテルで「野口さん手紙です」と言われた時は「留守中家に何事か起こりしや」不安一杯でした。しかし文面はテレビ放送の件、とにかく羽田に着いたら一番に税関を通り、夜行列車で甲府に帰るようにとの指示でした。夜明けの甲府駅から急いでダイタビルの学園へ、旅の疲れも忘れて朝七時半からテレビ局のメンバーと打合せをし、九時には九ちゃんと会い放送の順序や生徒への質問など取り決め、十二時半スタートで学園の教室風景から放送に入りました。当時人気歌手の九ちゃんでしたから大変な騒ぎでサインをしてもらいたい人で廊下が一杯でした。スムーズにサイン会が行われるよう陰の力となってくれましたのも理事長でした。
ダイタビル教室からは、又歌手の山本リンダさんが来まして私が料理を教える場面の生放送もありました。
日水がスポンサーとなり、シーグルメやソーセージの宣伝を行い、毎週この材料を使ってのアイディア料理五点を選び、五千円の賞金を出すという放送も行いました。毎週土曜日の昼の番組でしたが、応募者が多く、選ぶのに大変な思いをした事もあります。
柳家小きんさん(当時)の司会により、山梨県内の有名御夫婦に登場して頂き、私と一緒に、それぞれの御家庭の自慢料理を作って頂くという番組でした。当時の知事、甲府市長、富士吉田市長を始め御医者様、会社社長御夫妻と各界の方々に出演して頂きました。その指導役の私は大変でしたが、それぞれの御家庭の心暖まるものがつたわって参りまして、私にとりましては尊い経験でございました。十二月三十一日がこの番組の放送日に当りました折、何方も御都合が悪く、仕方なく私共夫婦が出演致しました。好評のうちに終りましたのに、表立つ事の嫌いな主人は翌元旦まで不機嫌でした。
NHKを始め、YBS、UTY、CATVなど色々な形で料理番組に出演しましたので、多くの方々から「先生いつもご活躍で、御元気ですね。この間もテレビでおめにかかりました。」などと町で挨拶される事があります。
フジテレビの「くいしんぼう万歳」の番組では渡辺文雄、竜崎勝、宍戸錠などの俳優の甲州入りの折、郷土料理の指導に当り、裏方を務めたり、主人と一緒に画面にも出ました。

≪ 野口富子『味わう人生』(昭和62年上梓)≫より



【私からのコメント】
今ではテレビの生中継はない日がないようですが、昭和40年代前半まではまだ珍しかった。そんな頃です。人気者の坂本九が、視聴者のお茶の間に味の素の製品をかかえて「一、二の九」で現れる番組は大人気でした。九ちゃんが訪ねる家の周りは、決まっていつも黒山の人だかりです。
甲府駅前のダイタビルに教室を開設して、半年ほど経った頃でした。貸しビル(調理台12台)での料理教室があまりなかった時代、そこから中継したいと番組からお呼びがかかったのです。その連絡が入ったのは、母がはじめてのヨーロッパへ旅立った次の日です。そして九ちゃんがやってくるのは母の帰国の翌日。今とちがって、国際電話なんて考えもしなかったのです。すぐ手紙を書いて、さいごの訪問地ローマのホテルへ出しました。「羽田に到着したら、すぐ甲府へ戻ってください」。
本来は生中継の番組でしたが、さすがにダイタビル教室で学園生数十名の中に九ちゃんが入ってクイズをしたり、インタビューをしたりですから、スムーズに番組作りをするため、録画撮りをしました。放映になった夜、生中継と勘違いした人たちが、もう一つの勘違い、野口料理学園の自宅からの生中継と思い、わが家の周辺は押すな押すなの人の山。私は学生で東京にいましたが、ひとり家にいた高校生の弟が、外がうるさいので窓からのぞくと、大勢の人が取り巻いていてびっくり仰天したそうです。
昭和50年代、山梨放送のテレビ番組で、母は「日水」の「シーグルメ」のコマーシャルを手伝っていました。一度だけ、「日水のシーグルメをよろしく」と缶詰を持って言うべきところを、ナント「日水のシーチキンをどうぞ」とやってしまいました。あろうことか他社の商品名です。生放送です。後の祭り、訂正はききません。言い訳もききません。「センセイ! 今回はノーギャラ」と言われたとか言われなかったとか…
キッコーマン提供の「くいしん坊万歳」は、初代の渡辺文雄氏、故人となった竜崎勝氏、宍戸錠氏、村野武範氏の時に番組作りに参加しました。友人・知人・親戚などの台所をお借りしての録画のお手伝いが主なものでした。村野氏の時は、学園生がわが家の台所で録画しました。私も裏方をつとめましたが、短いカットをいくつも撮影するのではなく、番組を2つ位の部分に分け、村野氏がおしゃべりし、学園生に質問してどんどん撮っていきます。できあがりの料理を食べるシーンは、別に料理を大きく写し、箸やフォークで持ち上げる個所だけを撮影します。放送されたのを見ると、見事に話はつながり、ちゃんと一つの番組になってまったく違和感がないのには感心しました。

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