今週のレシピ


・ブライダルクラス(11月第1週)のメニューより

● 牡蠣(かき)フライ  ●   176kcal. 塩分 0.7g

牡蠣フライの写真 [材料]  -6人分-

・牡蠣(かき)300g
  塩/胡椒適宜
◎衣
  小麦粉適宜
  卵1個
  パン粉適宜
・揚げ油
◎付け合わせ
  レモン/パセリ適宜

  [作り方]

  1. 牡蠣は海水程度の塩水で洗い、ザルにあげ、水気を切る。
  2. 乾いた布巾の上に牡蠣をならべ、上からもう一枚乾いた布巾をかけ、そっとおさえて水気をとる。
  3. 牡蠣に塩・胡椒をする。
  4. 3に小麦粉、よくといた卵、パン粉の順につける。
  5. 180〜190℃の油でさっと揚げる。
  6. 櫛型(くしがた)に切ったレモンとパセリを添えて、牡蠣フライを盛り付ける。

ポイントはここ


ちょっと一言

    布巾を使う写真
  • 牡蠣の水気をとるために、乾いた布巾を使います。そのため、水気を拭きとったあと、牡蠣のまわりの黒い色が布巾についてしまい、洗ってもなかなかとれません。真新しい布巾ではもったいない! 使い古した布巾を洗って、乾かしておけば充分。
  • また300g位の牡蠣では、2枚使う必要はありません。1枚の半分にきちんとならべ、残りの半分を牡蠣の上にかぶせ、そっと押さえてください。
  • 牡蠣で汚れた布巾は…
    洗っても布巾についた黒いすじは、とれにくいもの。軽く洗って乾かし、フライパンや中華鍋に油を塗るための「油坊主(あぶらぼうず)」(テルテル坊主と同じもの)にします。牡蠣に使った布巾だけでなく、使い古した布巾で作っておくと便利です。

もう、ちょっと一言

  • 「牡蠣」と聞くと、みなさんはどんな料理を思い浮かべますか? 牡蠣フライ、牡蠣の土手鍋(味噌の味)etc.
    私にはもう一つ、母の思い出の料理があります。それは「カークパトリック」。牡蠣にベーコンを巻いてグラタン皿におき、トマトケチャップをかけてオーブンで焼きます。子供の頃の記憶は、料理の内容より、その料理名が印象的でした。いろいろな本でさがしてみましたが、なかなか見つかりませんでした。いったい母は、どなたから、どこで…。
    もしかしたら、と手にした田中徳三郎著『フランス料理 上巻』(昭和29年、光生館)にありました。第2章前菜(オール―ドウヴル)、第2節温かい前菜、16.オイスター・キークパトリック・スタイル(牡蠣のケチャップ、ベーコン焼)、これが元になっていると分かりました。

●オイスター・キークパトリック・スタイル (牡蠣のケチャップ、ベーコン焼)

キークパトリックの写真 [材料]

・殻牡蠣(からがき)6個
・ベーコン2a角薄切り6枚
・トマトケチャップ茶さじ6杯(小さじ6)
・おろしたチーズ茶さじ6杯(小さじ6)
・カイエンヌペッパー少々
・とかしバター少々

[作り方]

  • 殻の平たい方をとりのぞき、刷毛(はけ)で水洗いをした牡蠣の上にベーコンをのせ、ケチャップをかけ、チーズをふりかけ、とかしたバターを少々たらし、カイエンヌペッパーを極く少々ふりかけ、強火のオーブンで3〜4分焼いて盛り付け、生のパセリーを添えて供す。

[ついでに…]

  • 流通の発達した今は、山梨県でも簡単に「殻牡蠣(からがき)」は手に入りますが、40年以上前となると、ほとんど無理だったと思います。そこで母は、田中先生の料理をグラタン皿にのせて焼くようにアレンジしたのでしょう。母はあまり「牡蠣」が好みではなく、またトマトケチャップが好きだったことから、「牡蠣をベーコンで巻いてトマトケチャップをかけて焼く」ことで牡蠣をおいしく食べたのだと思われます。
    これからは、このオードブルを私のレパートリーに加えようと思います。みなさんもいかがですか。オーブントースターで充分おいしくできますよ。
  • 田中徳三郎先生は、母のフランス料理の恩師・田中玄四郎先生のお兄様です。戦前にパリの一流レストランで3年間修行され、戦後は東京会館、帝国ホテル、パレスホテルなどで料理長をなさったと記憶しています。大勢のお弟子さんが今も御活躍と聞いています。


≪組み合わせメニュー≫

    ◎豚肉のクリーム煮
    ◎グリーンサラダ
    ◎ヨーグルトムース

【野口料理学園】

塩ひとつまみ


■味わう人生 (その4)

―料理教室発展への道―

 ・小さい料理教室での思い出

昭和三十年、生徒は益々多くなり、収容出来かねてお断りするようになってしまいましたので、元の土蔵の後に小さな二階建の教室を作りました。その頃では珍しい大きなオーブンをほしいと思い、ガス会社に御願いして東京まで一緒に見に行ってもらい、私の夢に見ていたオーブンを購入する事が出来ました。
四方大きな窓ガラス、二階は日本間で料理の試食とお作法が教えられような教室が完成。女子大時代の友人渡辺恵子様の義妹御夫妻(神村様)が山梨大学の教授として甲府に転勤して来られました。奥様が洋裁の先生でしたので、御力をお借りする事になり、料理と共に教える事にして、ここにふたば料理洋裁教室の設立を見ました。
この頃から山梨日日新聞に料理原稿と共に写真をのせて頂くようになり、更に仕事が進み、山日料理巡回講習会が行われるようになり、今も大変御元気で御活躍の窪田檻良翁様と御一緒に山梨県の各地を回りました。甲府市内の地理位しか解らない私が、料理講習会のお陰で県の隅々までいろいろの事情が解るようになりました。山里の好きな主人もたびたび同行し、私が講習会をしている間、山菜取りや植物採集をして楽しんでいました。その地の特産物を使っての郷土料理もその頃から研究が盛んになり、コンクールもおこなわれるようになりました。県民会館でのコンクールに当学園が多くの優秀賞を頂いた事もあります。

まだ二階建の家の少ない頃でしたので周囲に高い建物が全くなく良く目立ちました。
日毎に生徒は増加し、昼のクラスだけでなく夜間のクラスも週二回行うようになりました。
昭和三十一年、日立電気からの依頼を受け、家庭電化製品の展示場としてお貸しし、戸外にテントを張り、三日間講習を行いました。電気冷蔵庫、ミキサー、トースターを始め、掃除機の使い方などの実演でした。
日立の社員の方が東京から大勢見え、器具の説明をし、私はミキサーを使っての料理を行いました。果物や野菜のジュースを作り、生パン粉、マヨネーズの作り方など、目の前でアッという間に出来上がる様子に入場者は喚声を上げて喜んでくれました。このパン粉やマヨネーズを使って、ハンバーガーやサンドウィッチを一日百人分も作り、試食してもらいましたが、足りない程でした。三日間の展示でしたが、この小さな教室に三百人以上の入場者があり、主催者の日立電気もまた私達も驚きの外ありませんでした。二階の座敷で掃除機の実演をしておりました社員のネクタイが吸い込まれ、首を締めつけられるというアクシデントが起きたのも今になれば笑い話ですが、使い馴れない上に見学していた人達も初めて見る掃除機に気をとられ、誰一人として電源を抜くという事に気がつかず、一瞬どうなる事かと大騒ぎになった程でした。

≪ 野口富子『味わう人生』(昭和62年上梓)≫より

【私からのコメント】

戦後10年、少しずつ食材が出回りだして料理への関心も増し、それに連れて生徒が増えました。母は夜のクラスもはじめました。その時まだ幼かった私に、ひとつ条件をつけました。
「お料理の仕事をしている間は、お母さんのところへ来てはダメよ」。
3〜4歳の頃、お気に入りのキューピーさんをおんぶして、母の授業の中に入ってみんなのすることをじっと見ていたとか(私はまったく記憶にないのですが)。そして、間違ったことを生徒がすると、その人のスカートを引っ張り、「ねえ、オバチャン(二十歳代の娘さんもその当時の私にとってはオネエサンではなかった…)、ちがうヨ!」と注意(?)してまわったそうです。夜のクラスをはじめ、新しく教室を建て、母は「仕事」と「家庭」をきちんと分けようと考えたのだと思います。私には「教室への出入り禁止」はちょっぴり淋しく、ドアを細く開けては、そおっと覗いていたことを憶えています。

「小さな教室」の思い出は、私の小学校入学から中学3年生の春、新しい大きな教室が仕上がるまでの8年間にもなります。「ふたば料理洋裁教室」の神村先生は、とても上品な美しい奥様でした。先生の手にかかると、一枚の布がさまざまな洋服に仕上がっていき、料理とはちがう世界を見たような気がしました。
「お料理はいいわネ、もし焦がしちゃったりしても、食べちゃえば何も残らないでしょ。洋裁は、布を切りそこなったりしたら、その服がある間は失敗が残ってしまうのよネ」
失敗は許されないということです。これは逆に、すばらしい洋服はいつまでも残るということでもあります。料理はそうはいきません。どんなにおいしい料理を作っても、そのままとってはおけません。それは食べた人だけしか味わえない。しかも、二度とおなじおいしさは出せないかもしれない。だから料理というのは、その都度その都度、一生懸命取り組まなければならない。家族のために料理をしながら、また授業をしながらでも、あの神村先生のことばの意味するところをいつも自分に言い聞かせています。

日立電気の展示会は昭和31年、小学校2年生の時でした。鮮明に記憶にあります。氷を入れて冷やす冷蔵庫は近所の魚屋さんで見たことはありましたが、モーターで冷やす「電気冷蔵庫」は珍しいものでした。ミキサーもよく憶えています。母がマヨネーズを作る時、汗をいっぱいかいて泡立て器で混ぜ、とても疲れると嘆いていましたから、油を加えると10数秒で仕上がってしまう「ミキサー」はただただ驚きでした。
「掃除機事件]は、展示会の最終日、2階の座敷で起きました。私もその場にいました。本当に一瞬の出来事でした。日立の社員の方のネクタイが、掃除機に吸い込まれてしまったのです。見学していたお客さんは、何が起こったのか、どうすればいいのか分からずオロオロ。当のご本人は慌てず騒がず、スイッチを切って涼しい顏。いま思うと、どうもあれは演技だったかな…吸い込まれたネクタイは、洗濯屋さんでシャンと元通りになったのを憶えています。

山梨日日新聞社主催の「山日料理巡回講習会」は、後に山日YBSクッキングサロンとして平成12年3月まで続きました。そのお話は、郷土料理コンクールの思い出と一緒にまたの機会に譲ります。


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