| 塩 ひ と つ ま み |
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■死生観●「人間の体って、飲み食いしないでどれだけ持つんだろうなあ?」
いただき物の虎屋の羊羹(ようかん)を口にしていた夫が、フッともらしました。
「ヘンなこと言わないでこんな時に。折角の高級羊羹がまずくなるじゃないの」
得てして人(夫)は、至福の時に限ってまるでかけ離れた妄想に駆られるみたいです。案の定、「最高の幸せを感じるからこそ、真逆のことを考えるものなんだよ」と夫。
なるほど。わざと正反対のことに思いをはせ、それをテコに、より一層手元の幸福感を増幅させようという魂胆。〝素直においしい、幸せだなと言えばいいものを。スネた性格!″ 天邪鬼な夫に、そう返そうとしてやめました。「その人の体力や健康状態、そのときの周囲の状況、たとえば気象条件とか場所などに依るでしょ。でもせいぜい1カ月、位じゃないかしら」
根拠の希薄な当てずっぽうです。●「お前、飢餓状態ってなったことある?」
「あるわけないでしょ」
突拍子もない話です。
「それがどうしたの?」
「いや、なに。突然思いつきで聞いただけなんだけど」
「あなたはどうなの?」
ないと知ってて聞きました。
「もちろんないさ。空腹ならしょっちゅうだけどね。2,3日食わないときはあった。でも飢えるところまでは行ってない」
若い頃の海外の貧乏旅行や、今でも続けている山歩きでのことらしい。
「われわれ団塊のちょっと前の世代ならあるかもな。終戦直後の食糧難の時代を経験してればね。義父(おとう)さんなら戦争行ってるからモロだろ。外地だったし、まちがいなく飢餓状態を経験してる」確かにそうです。父は戦時中、ビルマ、タイ、シンガポールにいました。本人は幸運にも免れましたが、たくさんの戦友が餓死したようです。戦争が終わり、シンガポールの捕虜収容所から日本に復員したときは瘦せに痩せ、陸上競技の選手だった面影は皆無。極端に体力が低下し、喘息(ぜんそく)にかかっていたそうです。そこで母は、体力の回復増進にフキの葉を佃煮にして毎日の食卓に載せたと言っていました。その名残りで、我が家の小さな庭にはいまでもフキがたくさん植わっています。
●妄想癖のある夫が続けます。
「飢えるってどんなんだろ、飢餓状態に陥ればどうなるんだろ」
「なろうと思えばなれるでしょ。食を断ってしまえば簡単に」
「断食か。女がよくやるダイエット」
「女に限らないわよ、ダイエットもそう。でも、なにかに抗議するとか抵抗するためにもするでしょ」
「ハンガーストライキというやつだろ。たいてい期間限定だよ。そういう場合、支援者がいる。飢えとはちがう」
「じゃ絶食は? もっと厳しい飲み食い禁止の」
「ひざの手術のときに経験したよ。半日きりだったからこれも時間限定」
「でも即身仏ってあるでしょ」
「衆生を救おうと宗教的な理由から地中にもぐり、一切口にしないでお経を唱えながら仏さんになるという。そう、それが飢餓状態だ。でもな、過酷すぎる。オイソレとできることじゃない。こっちは無宗教だし」●理屈好きの夫のことばは続きます。
「即身仏は自らの意思でセットした飢餓状態だ。始めようと思えば始められる、止めようと思えば止められる。そうじゃなくて、不本意にも強いられた飢餓状態。自分から始めたものじゃなく、外因によってそうせざるを得なくなった飢餓のことだ。途中で止めたくても止められない。先には死あるのみ」
「何を言いたいのか私にはさっぱり……」●執着心の強い夫のつぶやきはさらに続きます。
「飢えって苦しいんだろうなあ」
「当たり前でしょ。辛くて苦しくて悲惨、この世の地獄って言われるくらいだから」
「でも栄養が摂れないんだから、徐々に弱くなってあらゆる機能が低下し、感覚も意識も失い、しまいには辛さも苦しさも何もかも感じなくなる。ということは、自然死に近い」
「わかった。ラクに死にたいということね、言いたかったのは。長々回り道をしたもんだわ。最初からそう言えばいいのに」
「そういう齢になったということだ」●あーあ。ここまで真面目に受け答えをして損した気分。途端に応答がぞんざいになっていくのが自分でもわかります。
「じゃ、まず軽く断食から始めて、絶食、飢餓って段階を踏んでいけばラクに死に至れるんじゃありません?」
「それじゃ自殺だ」
「自分から食べるのをやめるのはすべて自殺行為でしょ」
「そこまでの決心がつかないから悩んでるんじゃないか」
「あっそっ。だったら誰かに頼んで殺してもらったら」
「それじゃ嫌なんだ。頼んだところで、いつ実行されるか不安と恐怖に付きまとわれる。それに痛みを伴うし」
「知りませんよ、もう」
私はズバッと言ってやりました。
「あのね、料理学校は食材ありきから始まるのよ。飢えとか飢餓とかは無縁なの。あなたの死生観とは付き合いきれません!」
【野口料理学園】
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