塩 ひ と つ ま み

食料難と飢餓 

●パレスチナ・ガザ地区の様子が毎日のようにテレビに流れます。毎日どころか、日に何度もという高い頻度です。とりわけ、配給所で食料をもらおうと、必死の形相でわれ先に粗末な容器を突き出す子供たちの姿には、胸が張り裂ける思いがします。そこには銃火による殺害の恐怖と、食料不足による餓死の恐怖に満ち満ちています。それだけではありません。病気やケガの心配、治安悪化による不安、おまけに住む家もないのですから、地獄そのものです。

落下傘の食料投下に群がる光景や、人を押しのけてスープやパンを奪い取ろうとする行動を卑しいとか、浅ましいとか、はしたないなどと言う人はいないでしょう。人間が人間であることを保証するものが何一つない、死の瀬戸際に立たされた戦場だからです。

●さきの大戦下の日本を想起させます。戦争末期、アメリカ軍が各地に仕掛けた無差別の空爆で町のほとんどの建物や施設が破壊され、大勢の一般市民が亡くなりました(甲府もそうでした)。空襲の恐怖の後は、敗戦と共に襲ってきた飢餓の恐怖。命の危険にさらされた恐ろしさは、時代も場所も民族も関係ありません。

この時期を最後に、日本人は飢餓の恐怖というものを知らないのではないでしょうか。体験した人も僅かになってきました。毎年のように襲ってくる台風、いつ起きるか分からない大地震や火山噴火は人命を奪い、生活を破壊して甚大な被害をもたらします。必然的に食料難に陥ります。でもその都度、自助努力と共に他所からの温かい援助が届けられますから、敗戦時のような深刻な飢餓状態にまで及んだという話は聞きません。

私自身、飢えはおろか食料難の経験さえありません。子供時分は戦後まもない食料不足の時期を脱していましたし、これまでも台風などの自然災害による避難所生活の経験もしていません。
同世代でも主人にはありました。小学3年のときです。大火事に見舞われて1000戸以上が消失、小学校の体育館で避難所生活を送ったそうです。期間は一ヶ月以上に及び、ひもじさは感じなかったものの、配給された脱脂粉乳やクジラの缶詰の味と臭いが苦々しく記憶に残っているとか。

これらに増して強烈な臭いを放ったのが手洗い所に常備されたクレゾール石鹸液。毒々しい色と相まって、未だにトラウマとして何かの拍子にぶり返すのだそうです。当時、どれほど衛生面に気を使っていたのかが窺われます。
そんな窮状をよそに、子供たちの表情はどこ吹く風で、押し合いへしあいの共同生活をむしろ楽しんでいるところがありました。主人など通学時間が行きも帰りもゼロで助かった、そこで何度も練習して初めて自分で自転車に乗れるようになって嬉しかったなどと回想します。子供は敏感なものです。猛火から逃れ、とりあえずは安全が保たれて、食べる物が支給されていたからでしょう。

●飢えがどういうものであるか、想像するほかはありません。想像以上であることは想像できます。食べ物を奪い合うのはまだ元気がある証拠で、しだいに体力気力が低下して動けなくなり栄養失調に、それが高じると、折角食べ物が手に入っても口へ運ぶ力、嚙む力、飲み込む力、消化する力すべてがなくなって衰弱し、死に至ります。

自然が原因の飢饉は致し方ないとして、人為的な災いで飢餓に陥るのは言語道断、愚の骨頂です。ガザは戦争によるもの、明らかに人間が作り出した惨状です。そもそもの紛争の発端はあまりに根が深すぎて、私ごときでは善悪正邪のつけようがありません。が、少なくても現状は、イスラエル側、ハマス側の双方に非があり責任があると言えます。もっとも犠牲を強いられているのは非戦闘員のガザ市民なのですから。

見過ごせないのは、その人たちへの外からの援助物資の搬入を妨げていることです。人道上、イスラエルが国連や各国から非難されて当然の気がします。真っ当に考えれば、第二次大戦で、どの民族より理不尽に虐殺され過酷な飢餓状態に苦しめられた人々です、「痛み」は心底知り尽くしているはずなのに……。正直、ユダヤ人が分からなくなりました。

人間の争いを起因に発生した難民収容所が世界中にいくつあるのか正確には知りません。そこでは多くの人々が食料難に喘いでいます。解消する方法は明白です。争いを止めて援助の手を差し伸べる、それだけで済むのです。でも動こうとしません。理解に苦しむばかりか、愚かしくも悲しいことです。人間であることをやめたくなるほどに。

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