今週のレシピ


・ブライダルクラス(11月第4週)のメニューより

● コーンクリームスープ ●   113kcal. 塩分1.4g

コーンクリームスープの写真 [材料]  -6人分-

・コーンの缶詰1缶(230g)
◎ホワイトルー
  バター大さじ2
  小麦粉大さじ4
◎スープストック
  水3カップ
  固形スープの素1個
・牛乳1カップ
・塩小さじ1
・胡椒少々
・クルトン食パン1/2枚分

  [作り方]

  1. コーン…クリームスタイルを買う。
  2. 厚手の鍋にバターをとかし、小麦粉を炒め、スープストックでのばす。
  3. 牛乳とコーンの缶詰を加え、塩・胡椒で調味して仕上げる。
  4. 1斤12〜16枚切りを5_角に切り、油で揚げてクルトンを作り、添える。

ポイントはここ


ちょっと一言

  • 献立をたてるとき、和風・洋風・中華風いずれの場合も、「汁物」を一品考えてください。「これからおいしい物をたべますよ」と、「胃」にお知らせする役目を、献立の中で「汁」はもっています。
    洋風料理の献立で、フルコースの場合は、スープはコンソメがピッタリ。昼食にサンドウィッチを考えたら、ちょっとボリュームのある「コーンクリームスープ」とか「ポテトのピューレ」などが合うでしょう
    「汁物」の味付けについてもちょっと一言。塩味が濃いものを食べると、次はもっと濃くないと満足しないものです。最初の汁はなるべく薄味…だんだん「胃」が元気に働くようにしてあげましょう。

≪組み合わせメニュー≫

    ◎サンドウィッチ
    ◎フルーツサラダ

【野口料理学園】

塩ひとつまみ


■味わう人生 (その7)

―料理教室発展への道―

 ・柊 会 (つづき)

それから柊会は毎年一度当番県を決めて、地方新聞社に御協力を願い、各地の郷土料理を講習会場で教え、また行ったさきざきで、その土地の古い郷土料理に接し、深い味わいを探求し続けました。年に二、三度は研究発表会を行い、お互いに姉妹以上の気心の知れた同志となり、経営上のアドバイスも教え合い、各先生共に、色々な意味で、その県第一人者となりました。
昭和四十一年六月二十日には実業の日本社から「日本の郷土料理」第一版を発行し、昭和四十九年七月七月三十一日にドメス出版から、皆で協力し、より詳しくより正しいものとして第二版目を発行しました。
私の料理学校経営上の源動力となりましたものは、主人の大きな理解力と援助であり、もう一つはこの柊会の一員にして預けた事だと信じております。
柊会が京都の柊屋で設立された翌朝、その会場で皆様とお別れ致しました。ちょうどその折り九州で行われていた国体の帰り、国体の一行と別れて、主人は京都で下車し、私を迎えに来てくれました。二人で京都の五条にある旅館に一泊し、翌日京都見物をさせてもらいました。新婚旅行も出来なかった時代に結ばれた私共にとりましては、大きな思い出の一つでもあります。
北海道から沖縄でま日本中旅し、料理研修を重ねた私共は今では、良き友として海外にまで足を延ばし、食文化の深さを探求するかたわら、人間の生き甲斐を語り合える同志としても交流を深めております。
柊会の二十周年の記念の会を柊屋で開催してから早や七年もたってしまいました。去年の徳島高知の旅は二十六年振りの思い出多きものでした。皆で桂浜に立ち、よさこい節を口ずさんだ時は、苦労して歩んで来た料理学校の経営の道の長きを思い出し、涙なくしてはおられませんでした。
この一月十五日には会長沢本先生も御他界。二人の会員も亡くなり、皆、歳取りました。しかし美しい友情はまだまだ柊会員の心の中に流れています。同じ志を持つ良き友に恵まれたことに常に感謝している私です。
旅の好きだった主人も私と共に各地に御伺いし、男性の少ない会だけに皆様から大切にして頂き、賑やかな宴会好きの主人も幸せだったと思います。沖縄に行きました折には泡盛が気に入り、お酒好きな主人は沢山頂戴し、御機嫌になり、沖縄民謡を歌いながら新島先生と御一緒に沖縄の舞を踊った楽しそうな姿は目に焼きつく程強く残っております。
長野での研修会の帰り、りんご園で、柊会員に囲まれて写した写真も今は思い出のものとなってしまいました。

≪ 野口富子『味わう人生』(昭和62年上梓)≫より


【私からのコメント】

柊会が設立されたのは昭和34年10月、第1回の研究会が四国で行なわれたのは昭和36年5月、実はその直前の4月30日、一緒に暮らしていた祖父が亡くなりました。父親の四十九日も済んでいないなか、母は出かけたのです。
母が東京に勉強に行き、新聞社の講習会で出かける日は、私と弟の面倒はすべて祖父がみてくれました。その祖父がもういないのです。でも私は中学1年生になっていましたし、弟も小学5年生、「おじいちゃんがいなくても大丈夫」と母の四国行きを応援しました。母も一度決めたことは断固実行する信念の持ち主でしたから、四国の旅に出かけました。第1回がこんな事情でしたので、それから母は亡くなるまで、一度も休まず柊会に出席しました。
30数年間、母から聞いたり、実際に私が参加させていただいた柊会のエピソードは数知れません。初めて母が北海道へ行ったときのことです。季節は秋。札幌で、アキアジがおいしいよ、お土産に送りませんかと勧められました。「秋鯵」と思い込み(母だけではなかったとか)、鯵ならまあ10匹ぐらいと注文。2〜3日後、料亭で会食中、「アキアジ」が「鮭」のことと分かり、みんな大慌てで電話をし、2匹か3匹に訂正したとか…
昭和41年秋、私が高校3年生、山梨県で柊会がありました。すでにいろいろな食材も出回り始めていましたが、まだまだ各地の郷土料理の材料は入りにくい時代でした。皆さんそれぞぞれ、珍しいものを持参されての講習会でした。印象に残っているのは、金沢の先生の「ゴリ」という小さい魚、上手に料理できないからと生きたまま持ってきました。
現在の料理講習会は、公民館の調理室などで実習するのが当たり前のようになっていますが、昭和30年代・40年代前半は、舞台の上に調理台とガスコンロを用意し、一品ずつ作り方の実演をしました。柊会の講習会は20人位の先生方ですから各自持ち時間が少なく、確かほとんど調理しておいて、仕上げと盛り付けの実演だったと思います。私はたまたま学校が半日で、午後からの講習会に出られ、本当によい勉強になりました。短い時間ながら各先生の講義の進め方はとても巧みで、「料理は話術」と仰った加藤照子先生の教えの大切さを実感しました。お国訛りを上手に使うなど、会場は爆笑の渦となりました。
昭和42年2月、返還前の沖縄へは、パスポートを持って“入国”しました。会場には何百という人が集まって大盛況、日本への期待と憧れの強さを肌で感じたと、母は興奮した面持ちで帰ってきました。1ヵ月後、沖縄の新聞社からお礼状と一緒に、アンケート結果が送られてきました。講習会場で一番の人気が、母の「豚肉のワイン風味焼き」だったとのこと。今でこそ、沖縄の人は豚肉をよく食べると分かっていますが、当時、母は知らずに豚肉料理をしたのです。分かっていたら、おそらく豚肉料理は避けたでしょう、やりにくいからと。ところがそれが却って沖縄のみなさんには、すぐ役に立つと人気があったというわけです。その頃から、新しい感覚の郷土料理の開発を始めていました。
大学卒業後、母を手伝うようになってからは、私も一緒に参加させてもらうこともありました。昭和50年、まだ冷凍食品が目新しかった頃です。これは将来かならず必要になる食材の形態だとみた柊会の面々は、冷凍食品協会の理事の方々に静岡まできていただき、スライドでの勉強会を催しました。これがきっかけとなり、柊会員の数名が同協会のコンサルタントを引き受けました。冷凍食品の正しい使い方の普及に努めたのです。現在、私を含め3名が、全国18名いるコンサルタントの一人として母(おや)の意思を継いで活動しています。
柊会の活動のもっとも特筆すべきは、『日本の郷土料理』の刊行でしょう。各県の先生方が、郷土に伝わる料理を、自分の足と手(プロの写真家ではなく自ら撮影)を駆使して丹念に拾い集めたものです。改訂版も出して徹底をきしました。その甲斐あって、郷土料理といえば、まっさきにあげられる「文献」となっています。「たいへんだったけど、あの時やっておいてよかった」と、生前母は述懐していました。また、こうも言いました。「柊会は、あの本を残せたことで存在価値はあった気がする」と。郷土料理で伝統を掘り起こし、冷凍食品で時代の先端を読む。みなさん一人一人が鋭い目と確かな腕、強い意志と行動力を兼ね備えたツワモノぞろいでした。


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